Last Updated on 2025年2月28日 by 成田滋
川端は、引退碁の終局場面を次のように記します。
「名人の引退碁の終わった時間を正確に言うと、昭和十三年十二月四日、午後二時四十二分であった。黒の二百三十七手が手止まりであった。そして名人が無言のまま駄目を一つつめた瞬間に、【五目でございますか】と立ち会いの小野田千代太郎六段がいった。つつしみ深い聲であった。名人の五目負けを分かっているものを、ここで作ってみる、その勞をはぶこうとした、名人への思いやりあろう。」小野田六段は名人の弟子の一人です。
「対局室につめかけている世話役の誰一人として、ものが言えない。その重い空気をやはらげるやうに,名人がいった。【私が入院しなければ、八月中に、箱根ですんでゐた】」この碁の持ち時間は40時間です。白の消費時間は19時間57分、黒は34時間19分だったとあります。当時、高段者の持ち時間は10時間が見当だったようです。この碁に限って40時間という空前絶後の持ち時間となったとも回想しています。
若い大竹七段が打ち終わったとき、「先生、ありがとうございました。」と名人に礼をしたまま、深くうなだれて身動きもしなく、両手を膝にそろえて、白い顔は青ざめていた、とも記します。
川端は、この老名人の碁界からの引退をなんとか記念するような場としたいと、引退碁の主催者に懇願していたような気配があります。名人を死ぬまで名人の位として残しておきたかったと考えていました。それは、日本のいろいろな芸道の流儀や家元、免許のようにそれが封建時代の遺物であっても、名人争奪戦のような碁を打たねばならなくなった状況を嘆くのです。
名人にも生涯の運命をかけ戦い幾度もあったようですが、この一番という碁に負けたことはありませんでした。名人になるまでの戦いは勢いであるとしても、名人になってからの、殊に晩年の戦いにまで、不敗を巷から信じられ、自分もそれを信じて臨まねばならなかったのは、むしろ悲劇だ、とも川端は言います。 (2023年7月24日)
